年譜

  • 1872(明治5)年
    3月3日、茨城県真壁郡下館町(現、筑西市)に 生まれる。本名嘉七。生家は醤油醸造業の傍ら雑貨を商う旧家。
  • 1885(明治18)年 13歳
    3月、下館尋常小学校卒業。
    このころ、陶器に興味を抱き筑波山麓の窯を尋ねるが廃窯、陶工から作品を見せられる。水戸、真岡へ丁稚奉公に出されるが、いずれも1週間と続かず家に戻る。
  • 1887(明治20)年 15歳
    上京、成城学校(陸士予備校)入学。
  • 1888(明治21)年 16歳
    陸軍士官学校受験、体格検査不合格で軍人志望断念。本郷の下宿付近の洋画家河久保正名の画塾に通う。
  • 1889(明治22)年 17歳
    9月、東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻科入学。岡倉天心、高村光雲らに学ぶ。生涯の友・新納忠之介(国宝彫刻修理の第一人者)と出会う。
  • 1894(明治27)年 22歳
    7月、東京美術学校彫刻科卒業。卒業制作「元禄美人」。
    開成予備校で彫刻を、攻玉社中学校で図画を教授。
  • 1895(明治28)年 23歳
    瓜生岩子の媒酌により福島県河沼郡坂下町(現、会津坂下町)呉服商鈴木作平の三女まると結婚。
    まるは日本画家跡見玉枝に師事、号玉蘭。新居を本郷森川町に構える。
    当時、郷里の勤行川に因み、勤川と号す。
  • 1896(明治29)年 24歳
    9月、石川県工業学校(現、石川県立工業高等学校)彫刻科教諭として金沢に赴任。
  • 1898(明治31)年 26歳
    3月、石川県工業学校彫刻科廃止により陶磁科を担当。同僚に結晶釉の北村弥一郎、青磁の諏訪蘇山ら。
  • 1903(明治36)年 31歳
    石川県立工業学校窯業科(1899年、陶磁科を窯業科に改称)教諭兼舎監を辞職、上京。
    9月、東京高等工業学校(現、東京工業大学)窯業科嘱託となる。
    11月3日、現・東京都北区田端に住居と工房を建立、移住。
  • 1904(明治37)年 32歳
    郷里の筑波山に因んで波山と号す。東京高等工業学校教授平野耕輔の指導により三方焚口の倒焔式丸窯を築き始める。
    佐賀県有田出身の深海三次郎が轆轤を担当。
  • 1906(明治39)年 34歳
    4月、初窯を焚き好成績を得る。
  • 1907(明治40)年 35歳
    1月、第2回窯焚き、焼成直後の地震により殆どを破損。
    このころ、生活のために花見用の瀟洒な杯や徳利(飛鳥山焼)を販売。
  • 1910(明治43)年 38歳
    轆轤師の深海三次郎、波山の元を去り、石川県小松出身の現田市松が後任として轆轤を担当、終生助手を務める。
  • 1911(明治44)年 39歳
    このころより、葆光彩磁の試作始まる。第2回全国窯業品共進会に皇后行啓。
    夫妻で「彩磁菊花図額皿」を御前制作する。
  • 1914(大正3)年 42歳
    後援会「波山会」が結成。
    このころ、葆光彩磁の技法が向上し、以降、葆光彩磁の名品を次々と制作する。
  • 1917(大正6)年 45歳
    大正天皇、貞明皇后、島津邸へ行幸啓、御前制作。
    「葆光彩磁珍果文花瓶」(泉屋博古館分館蔵、重要文化財)を日本美術協会展出品、金牌第一席受賞。
  • 1918(大正7)年 46歳
    新潟県長岡市で「波山会」結成。このころより、「彩壷会」の会員となる。
  • 1925(大正14)年 53歳
    5月、工芸を扱う帝展第4部の設置気運が高まり、金工家の香取秀真、漆工家の赤塚自得らと工芸済々会結成。
  • 1927(昭和2)年 55歳
    6月、新設の帝展第4部(美術工芸)委員。
    帝展に「紫金磁珍果彫文花瓶」(出光美術館蔵)を初出品。
    6月、関東の陶芸家による団体・東陶会結成、顧問に推挙される。
    茨城工芸会結成を提唱、会長就任。
  • 1929(昭和4)年 57歳
    香取秀真とともに、工芸家として初の帝国美術院会員。
  • 1933(昭和8)年 61歳
    このころより、郷里の高齢者に鳩杖を制作し寄贈、1951年まで続行、総数281点。
  • 1934(昭和9)年 62歳
    12月、鋳金の香取秀真、彫金の清水亀蔵と共に工芸部門の帝室技芸員に任命される。
  • 1937(昭和12)年 65歳
    6月、五代清水六兵衛、富本憲吉と共に帝国芸術院会員。
  • 1938(昭和13)年 66歳
    郷里の日中戦争戦没者遺族に観音像や香炉を制作、寄贈し慰霊。
    1956年まで続行、総数318点。
  • 1945(昭和20)年 73歳
    4月、空襲により住居・工房とも全焼、東京目黒の安原喜明宅に一泊し、下館の生家へ疎開。
  • 1946(昭和21)年 74歳
    筑波郡菅間村洞下(現、つくば市)にある旧東陶会会員・古宇田正雄の作業場を借りて制作を続行。
  • 1948(昭和23)年 76歳
    5月、下館で波山喜寿祝賀観能会開催。
  • 1949(昭和24)年 77歳
    下館で妻まるの傘寿祝賀観能会開催。
  • 1950(昭和25)年 78歳
    田端に工房再建。
  • 1951(昭和26)年 79歳
    3月、下館町名誉町民に推挙。
    5月、下館で寿峰会が波山傘寿祝賀会開催。
  • 1953(昭和28)年 81歳
    11月、陶芸家として初の文化勲章を受章。
    『板谷波山』波山先生伝記刊行会編、寿峰会刊。
    「板谷波山胸像」(日本芸術院会員吉田三郎制作)を石川県立工業高校、下館小学校校庭に建立。
  • 1954(昭和29)年 82歳
    3月、横山大観と共に茨城県名誉県民に推挙。
  • 1958(昭和33)年 86歳
    6月、日本橋三越にて「板谷波山作陶記念展」開催。
    8月7日、妻まる死去(享年89歳)。
  • 1960(昭和35)年 88歳
    重要無形文化財保持者(人間国宝)に推挙されるが辞退。
  • 1962(昭和37)年 90歳
    下館寿峰会を事務局に、育英資金として下館の邸宅と500万円を基金に財団設立を決意。
  • 1963(昭和38)年 91歳
    1月6日、轆轤師の現田市松、交通事故により死去(享年78歳)。
    「椿文茶碗」(出光美術館蔵、遺作)
    10月10日、財団法人波山記念会設立。
    10月10日、午後5時10分直腸癌のため死去、自作戒名「恵照院清秀波山居士」。従三位に叙せられ、銀杯一組を賜る。
    10月14日、青山斎場で葬儀。20日、下館小学校で下館市葬。田端大龍寺に埋葬。下館妙西寺に分骨埋葬。

※本年譜は、『板谷波山 陶片が語る技とこころ』2009年、財団法人波山先生記念会 に掲載の「板谷波山年譜」(文責・小松久人(学習院大学))より一部を抜粋したものです

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